ズンドコ手記

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【ネタバレ】シン・エヴァンゲリオン劇場版:||についての怪文書

シン・エヴァンゲリオン劇場版を観てきました。

 

前作Qをリアルタイムで観てから約9年…ついに公開された…!!という事実を受け入れるだけでもいっぱいいっぱいなところはあるので、細かいところまでは全然咀嚼しきれていないですが、取り急ぎ初見感想です。

 

 

!!!!!!!!以下、重大なネタバレがあります!!!!!!!!

 

 

 

観終わった直後の率直な感想として、これまでのエヴァンゲリオンという概念・現象に対して、作中で言うところの「落とし前」をつけた、と思います。

 

もちろんエヴァという物語が一つの結末に辿り着いた、という意味もありますが、世の中にある抽象的なイメージとしてのエヴァに一区切りつけることを目的とした映画だったという印象です。

 

作中でシンジ君たちがどのような結末を迎えたかは、実際に観てもらった通りなんですが、この物語を映画でやるにあたって一番意義があったなと思ったのは、碇ゲンドウに決着がついたことです。

ゲンドウは旧劇の世界から一貫して、人類補完計画を完遂することで碇ユイとの(精神的な)再開を果たすことを目的に行動してきた人物です。しかし、その目的は全人類を巻き込むことになるものであり、旧劇ではゼーレに、新劇ではヴィレに阻止されようとしています。

旧劇において、ゲンドウは人類補完計画を無事完遂、ユイとの再会を果たしますが、現実世界では初号機に上半身を齧られて退場します。新劇においてもゲンドウの信念は揺らぐどころか、より執念めいたものとなり、冬月と2人きりになり、更には顔面に謎空間が発生しようとも、計画進行の為にはあらゆる手段と取ってきました。

 

以上のようにエヴァの中で絶対的な存在であったゲンドウが、ついに自己を省み、自分自身と、そしてシンジと向き合った…!という一点でも、エヴァを追ってきて良かったな…となっています。

作中でもゲンドウが語ったように、彼はシンジを拒絶するしかなかったのです。シンジを受け入れることは、ユイの死んだ世界=現実を受け入れることであり、ユイとの再会を目的とする人類補完計画を阻む存在であるからです。もう後には引けない状況になっていたのもあると思いますが、結果として現実から目を背け続け、世界を巻き込む凶行へと突き進みました。

そもそもゲンドウは他人との関わりを避けて暮らしてきました、しかし大学でユイと出会い、そして失ったことでユイの存在する世界という閉塞した世界を望むことになってしまいました。このゲンドウが抱える問題は、旧劇でシンジがかつて望んだ世界と同じ構造をしているように思います。旧劇において、シンジはゲンドウを苦手としつつも、エヴァに乗ることで彼から認められることを求め続けていたが、同時に再び父に見放されることを極端に恐れて過ごすことになってしまい、そして色々あった結果(カヲル君登退場とか)、何も起こらない、人との関わりを持たない閉塞的な世界を望んだのです。

 新劇でもQで人間関係が滅茶苦茶になってしまったシンジは、シンエヴァ前半でほぼ廃人となっていますが、トウジやケンスケ達と暮らすことで、自分の行いが招いた現実を受け入れることに成功した、と自分は解釈していますが、黒波が山村留学している映像に面食らい過ぎてあんまり内容を覚えていないので、なぜシンジが立ち直れたかについては、なんか気づいたら治ってたような気もします。

ともかく、今まで子供だからと相手にしてこなかったシンジが、現実を受け入れ少し成長した状態でゲンドウの前に現れ、長い親子喧嘩(実相寺アングル!)の果てにゲンドウはシンジが大人になったことに気づくわけです。そして遂にシンジ=現実を受け入れる、更にはシンジの中にこそゲンドウが長年追い求めてきたユイを見出すことで、エヴァが数十年に渡って抱えてきた、根源的な問題の解消に至ったのです。自身がシンジを拒絶していることが最大の問題であることは、実は旧劇でも示唆されていて、前述のゲンドウが死ぬ直前、ユイと再会を果たしたあとはシンジを拒絶してきたことを謝りながら初号機に食べられています。なんにせよ、過去作から大量の未解決事項を引き継いでのシンエヴァで、ゲンドウ自身の問題が解決されるとは思ってもいなかったので、本当に感無量です…お話が上手すぎる

 

 

冒頭で述べたように、もう1つシンエヴァではエヴァそのものへの落とし前もつけたと感じています。

作中でゲンドウ問題が解決するや否、いきなりカヲル君が登場し、各種考察サイトで散々話されてきたエヴァ世界ループしている説について話し始めます。詳細は省きますが、シンジはエヴァの無い世界に行くことを決意します。

世界を移行する過程で、この世界に取り残された人をシンジが送り出す作業をやるんですが、その中で注目すべきはオリジナルの綾波レイです。彼女は2009年公開の破で初号機に取り込まれてから約12年ぶりの登場になりますが、まさにその時間経過を表したかのように髪が超長くなってます。更には謎のデカい人形を抱えていたりと、庵野監督が彼女に込めたモチーフは、明らかに「子供」であることが分かります。

まごころを、君に」でもエヴァと観客の関係性についての描写をした庵野監督が改めて、エヴァに囚われ続けている子供=観客に現実に向き合うことを促し、エヴァの無い世界へと導こうとしていたと思います。思い返せば、作中でも冒頭から繰り返し、現実に生きる大人/子供の対比を繰り返しています。第三村で子供のように質問を繰り返す黒波は、仕事を通じて大人になろうとしていましたし、シンジもトウジとケンスケが大人として自立する様を見て現実を受け入れます。

では、現実を見ること=大人であり、何十年に渡ってエヴァを追い続けた人々に向かって現実を見ろ!!と突き放した終わり方だったのかといえば、そうではないと思います。エヴァは終わるけど、現実での生活はこれからも続いていくし、頑張っていきましょう的な、前向きなメッセージを込めた締めくくり方であったと思っています。

 

 

観終わってそのまま誰の感想とかも見ずに書きなぐった結果、相当な怪文書が誕生してしまったわけですが、まだまだ飲み込み切れていないことは多くあり、これから何度も観返しては気づくことがたくさんあると思います。

とにかく今は、長年熱中してきた1つの物語が完結したことが何よりも喜ばしいです。

観てる間は常軌を逸した展開に次ぐ展開に圧倒されていただけでしたが、こうして記事を書いている間にジワジワと良かったな……という思いが募ってきました。

私もエヴァの無い世界をどうにかこうにか生きていこうと思います。

 

 

最後に、アスカ×ケンスケルート、何!!?!?!?!??!?!?!